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谷汲(揖斐川町)
谷汲山華厳寺(天台宗)
西国三十三番満願霊場の当山は、その古記録、古今記等をひもといてみると、今から千二百余年前の桓武天皇延暦十七年の創建で、隆盛を極て醍醐天皇の時、「谷汲山華厳寺」を下賜せられました。その後、建武元年足利の乱が起こり本堂は焼失してしまいましたが、幸いにも本尊だけはご安泰なることを得ました。正中元年から文明十一年の再興までは、三度の兵戦で全く荒廃に帰しましたが、薩摩国鹿児島の慈眼寺の住職道破拾穀上人が霊夢を感じて再興しました。
その後、幾多の星霜を経て大破したので、明治八年豪泰法印が再建の願主となり、同十二年現在の堂は再建されています。
宮殿内の木造毘沙門天立像は苦に指定の重要文化財です。
谷汲山華厳寺(天台宗)
西国三十三番満願霊場の当山は、その古記録、古今記等をひもといてみると、今から千二百余年前の桓武天皇延暦十七年の創建で、隆盛を極て醍醐天皇の時、「谷汲山華厳寺」を下賜せられました。その後、建武元年足利の乱が起こり本堂は焼失してしまいましたが、幸いにも本尊だけはご安泰なることを得ました。正中元年から文明十一年の再興までは、三度の兵戦で全く荒廃に帰しましたが、薩摩国鹿児島の慈眼寺の住職道破拾穀上人が霊夢を感じて再興しました。
その後、幾多の星霜を経て大破したので、明治八年豪泰法印が再建の願主となり、同十二年現在の堂は再建されています。
宮殿内の木造毘沙門天立像は苦に指定の重要文化財です。
谷汲踊り
七百余年の歴史は今も受け継がれ踊り続けられています。源平合戦の勝利を祝って源氏が踊った武者踊りがその始まりと伝えられその後、雨乞い踊り、また後には豊年踊りとよばれています。
横蔵寺の舎利仏(ミイラ)
横蔵寺には学界でもナゾとされている貴重な舎利仏(ミイラ)が安置されています。
その姿は妙心法師入定の相を今に伝えるものです。
横蔵寺本堂
桓武天皇の勅願により、延暦20年(801)に伝教大師が長者三輪次郎大夫藤原助基を中心ととして、創建された。
以来、38の建物、300余の末寺があったが、元亀の兵乱で焼失したといわれている。
その後、慶長15年(1610)に、現在の地に移して再興した。この本堂は寛文10年(1670)に落成している。
屋根は桧皮葺であり、方五間の建物はぶな材を使っためずらしいものである。
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この記事は「中日新聞多治見支部」のご協力を得て掲載しています
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